2009年03月17日

その一「片隅」

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*09.1.21 茶会記のカウンター Photo by Jiken

  枯れた花びら
                                宮ア二健

大寒翌日、四谷の空の暗鬱たる昼下がり。
夜勤の前に一息入れようと、久しぶりに立ち寄りました。
地元、茶会記のいつものカウンター席の端へ。
先客の紳士お二人と四方山話に花が咲きました。
何事にも思慮深くて真摯な若いマスター共々、
打てば感度よく響く、ありがたい隠れ家です。
ジャズとオーディオのサウンドはもちろんのこと、
私にとりましては興味深い話や独特な文化色に、
気軽に接することのできる唯一無二の空間です。
玉砂利に敷かれた石畳のような真直ぐな路地を来て、
突き当たりに「喫茶茶会記」の灯がともります。

ドアノブに手をかけ、木の扉を引いて入った時から、
今日この一時の、ささやかなドラマが始まります。
ドラマのプレリュードは、小気味良いジャズビートと、
暖かくて仄暗い空気、そして店主の衒わない会釈です。

四谷の住宅街で、心ある常連さんに育まれているお店ですから、
肩肘張ったり身構えたりすることもなく安心していられます。
勝手ながら、私にとっては隠宅のような場所です。
そうは言っても、自戒めきますが、
通い続けるほどに何か得るものと、
慣れによって失うものもあると思います。
得られるものは何であれ本人次第ですが…、
後々何かを失うものも自業自得、不徳の致す処でしょう。
これ因果応報というものかと思います。
こう言いますと、何方も実りのある前者を望まれるか、
「そんな得失を論ずるまでもないこと」と一蹴されるか…、
内心、言い放ったことの波紋にはらはらさせられます。
私の発言は、拘りの問題意識や極論、逆説的自説、
そして単なる願望や他力本願的提案の吐露が多いです。
こうした我が夢現を安心して語ることが出来るのは、
茶会記ならではの尊慮の香りがあればこそです。
鎌倉の大仏に例えて恐縮ですが、茶会記の体内に潜伏した自分は、
いつもとは違う格別の次元にいる自分であると錯覚させられます。
ですから、茶会記潜入体験を日常の一齣にはしたくありません。
近年、天女様のような方に導かれて初来店した時からして、
非日常でありました。
茶会記には、天女様がまとっていた透けた羽衣が掛かっています。

カウンターの左端にお邪魔して暫し憩い、
「さあ、おいとましよう」と立ち上がった時、
眼下左奥のガラスの花瓶周辺が、スポットライトを
浴びているかのように見えました。
侘しい植物が活けてあるのですが、花は垂れ下がって枯れています。
生き切った切花の末路の姿です。何種類かが混ざっているので
一概には言えませんが、花はカーネーションのようでした。
後で分かったことですが、
よりにもよって当日1月21日の誕生花でした。
私の目が一瞬釘付けになったのは、枯れた花そのものではなく、
漆黒のカウンターの上に散り敷いていた、
干乾びた花びらの箇所でした。その花びらは、
大振りなのでカーネーションのものではなさそうです。
そこには、天女様の沐浴のような造形の電灯が並立しています。
その肢体の突き立てられた両膝には、仄明りの月球を頂いています。
天女様の月光に照らされた花びらの屍の有様は、
茶室の小景として眼に映りました。
我が心底に棲む逆説魔は、「死に接し生を知れ」とほざきました。
人に演出されていないドラマを逆算して賞玩する喜びです。
かつては華やいでいたであろう花瓶の生花が枯れて…、
いやその前に、花びらが散り敷いてから干乾びた時間の経過、
必然的な前後関係と時間差の綾…。
日常という無頓着に忘れ去られた一角での自然の営み。
死してからの風化のドラマ。
生かされていて、次は死なされている無上のありがたさ。
その些細な自然の営みを、はばむことのなかった茶会記の主。
彼の存在あればこその展開でした。

我思うに、この巧まざる審美眼と配慮は、主の阿頼耶識でのこと。
このように想いを巡らした根拠も物証も、その実景にありました。
切花の枯渇の景を不快に思わなかったであろう先客の幾人、
無視か気付かないのか、そんなことは問題ではなく、
眼前の物事の美醜を判別することもなく放置されました。
これは生き物的優しさなのだと思います。
本来の力が働いて枯渇した生き物を、居合わせた人は
無為無意識で、弔ったのだと想像します。
あるがままの有様ですが…。
正しく侘び寂びを湛えた一角を通じて、
大切なことを感得できたような気持ちになりました。
折りしも心身を包み込むサウンドは、
主に選ばれた貴腐ワインのようなしっとりとした珠玉の調べ、
「ザ・トミー・フラナガン・トリオ」でした。

繰り返しになりますが、このお店を箱庭と見立てるなら、
花瓶の切花が、生から死へ到る小宇宙の動線を描いて、
我が心眼にアプローチし、扇動してくれました。
刹那ながら想像を楽しめました。
常識人は、こういった負の景を愛でないでしょうから、
花は枯れかけた時に処分されていた宿命であったことでしょう。
ガラスの小さな花瓶、枯れた切花、散り敷いた花びら、
月影よろしく天女様の化身のようなランプ、
手を下さなかった主客の方々…。
いずれにしても、ありがたいことでした。
老子の言葉「無為にして化す」のとおり、
私は自然に感化された俗人でありました。

外は冷たい小雨が降り出して、
さらに暗鬱の夕間暮れです。
時節は款冬華、
隠宅の片隅での暖かい物語でした。
posted by samuraisakaiki at 16:57| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
豆坂です。
とてもいい文章ですね。
ありがとうございます。
Posted by 豆坂為男 at 2009年03月17日 19:12
豆坂さま、こちらこそありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by 二健 at 2009年03月17日 19:13
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