2009年03月20日

その六「篝火」

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*2009.1.1 花園神社  Photo by Jiken



「炎=スピリチュアル=サムライ」


                                                 喫茶茶会記 福地 史人

'60年代新宿ジャズ喫茶の巨大な轟音は
なりを潜め、現在、その波動を感じさせる
店は数少ない。
現在、その波動を感じさせてくれる稀有な店が
「サムライ」である。
否、冷静に俯瞰すれば「ナルシス」という
偉大な店もある。
わたしの棲み分けとしては

ヨーロッパフリー、アメリカシカゴフリー系は
「ナルシス」 ※シラムレンというお店もある・・。

アジア大陸、アメリカイーストコースト系は
「サムライ」になる。


そしてサムライにしかないアイデンティティが
「スピリチュアル」になる。
ここで足引っ張りな方は
「ジャズはすべてスピリチュアルだろ」
とくるが、ここでは狭義の意味として
「スピリチュアル」を使いたい。
曼荼羅を喚起するような、より外観的な意味合い
もしくはDMRの名著「スピリチュアルジャズ」的質感。
ということになる。

サムライはスピリチュアル喫茶である。
それは真の意味においてである。
「真」という言葉は30年の歴史が担保している。
この持続性がとりあえずの論理的根拠になる。

であるからして
ウォールストリートジャーナルの記者が取材に
来たり、ハイカルチャーな外国人の客が多いのだ。

日本の店が、洋風の類型的な模倣をしている中
サムライはまったく独自の世界を作っている
からでもあろう。


わたしは、サムライの二健さんと
現在においては近しくさせていただいてるが
かつては、打ちひしがれた卑屈な客として
数回であるがサムライに来店していた。

サムライの席にすわると
なぜかコルトレーンの「インディア」が
聴こえてきたものだ。
畏敬の念をもつと、逆に店に行きづらくなったりするものだ。
そしてジワリと涙がでてきたりもする。
一流のジャズ喫茶においても
そのような体験は多いが
コルトレーンで感動できる偉大な店は
現在は本当に数少なくなっている。


新宿サムライ。
篝火の炎の如し。極彩色の店内。曼荼羅の中。招き猫の正夢。
サムライはスピリチャルを喚起する。

さらにいえばサムライは寺院である。

店舗滞在時においてのみ
少々、合法ドラック的意図で
教祖 宮崎二健に帰依するのも一興である。

posted by samuraisakaiki at 03:50| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なんと、前代未聞な斯様なご評価!
穴があったら入りたい心境の局地。
ジャズ喫茶道の本道からは反れ、見よう見まねの我が道程、
かれこれ青年から初老への覚束ない長尺の歩み、
先達のたゆまないジャズ鑑賞の場への愛情と努力の許に、
日本特有のジャズ喫茶文化が育まれ、
そのことに憧れ、その潮流にあやかり現在に至った。
人望もご縁も希薄か、まったく無き故、
その先達の何方かに師事したわけでもなく、
仁義を切ったわけでもなく、
我流のジャズ喫茶ないしジャズバーを営み続け現在に至った。
思えば自省を込めて、見様見真似、試行錯誤、我田引水、
模倣芸術、素人経営、殿様商売、孤軍奮闘、二律背反、
ジャズ天狗などの言葉が回転木馬のように脳裏を堂々巡りする。
拠りたい所との無縁、いつまでも無名の亜流街道一路のみ。
時折、先達の牙城に潜入して、その構造や戦法を隠密し、
張りぼての我が根城にてこ入れしようとした昔日の日々。
やはり何よりも一番有難いのは、
ジャズ喫茶巡礼のお遍路さん宜しく、
渡り鳥やら回遊魚のオアシスあるいは餌場宜しく、
ご愛顧、ご利用して下さるお客様の方々。
名店も弊店も訳隔てなく巡って下さる有難いお客様。
巡れば巡るほど功徳があるかのような巡礼冥利。
その基本形の個人的巡りや交流において、
縦横のつながりのないジャズ喫茶においても、
連携され相乗効果により独特な文化が形成された。
勿論それは世界に例のない日本のジャズ喫茶文化だ。

卑近ながら、夜の営み(自店での仕事のこと)の前、
立ち寄って懺悔(他宗用語?)や勤行を積む所、
つまり、私が週に一度巡礼する四谷唯一の
変り種寺院たる喫茶茶会記にて、
たった銀貨一枚の、お布施と引き換えに、
福地住職と歯に衣を着せない問答を交わして
得度を目指す所、即ち彼岸、
対岸の火事ならぬジャズ・スピリット。
日本語では、ジャズ精神、
そこには神が宿り畏敬の念に駆られる。
だからジャズ喫茶ないしジャズ・バーが寺院であっても
なんら不思議ではない。
日本にはジャズ喫茶というお寺がある。
ジャズ喫茶の親父は高僧であっても、
小坊主であっても、生臭坊主であっても当為だ。
その格付けや評価は檀家や信徒たるお客様が決める。
決して仲間内の誉め合いや立て合いで決まるものではない。
主権在民、期待できる浄財もお布施もお客様の財布にある。

ささやかな経済と綱渡りしてジャス喫茶文化は、
日本の都市や町に点在して体をなした。
思い入れも何もかも新鮮な喫茶茶会記が良い例で、
ジャズ喫茶文化は個人的に個性的に継承され根付いている。
一見無宗教のジャズもジャズ喫茶も、
認識を改めれば、経典の無い、ボスの存在しない、
ジャズ教なのだと思う。私はその信者と言ってもいい。
Posted by 二健 at 2009年03月22日 03:35


往復書簡を盗み読み、ごめんなさいね。


Jikenさん

ジャズは宗教であり
ジャズ喫茶のマスターは、教祖である──
かの高瀬氏のお言葉です。

でも、悲しいかな・・・
今の若い子たちには、胡散臭いだけかも?

ただ、その精神性や生き様は、
茶会記のマスター、福地さんが
伝えるべき担い手なのと、私は想っています。

昭和の匂いを、未だ引きずっている私も
陰ながら、応援しています・・・。

そうそう、福地さんが涙したと云う、
コルトレーンの「インディア」
私にも聴かせて下さいね。

Posted by 摩有 at 2009年03月24日 10:28
摩有さま、盗み読みだなんてとんでもありません。
曲がりなりにも表現されたものを鑑賞されるほど
嬉しいことはありません。しかもコメントまで戴けて幸いです。
これも当往復書簡の貴重な進展です。

そうですか高瀬氏も既に同じこと言われていたのですね。
もしかしたら氏の著作に書いてあるかも知れませんね。
無知のまま発言していますので、
よくそのような指摘に合い恐縮しております。
わが極論は歴史上の何とかという偉人が既に言っていると
教わったこともしばしば、私にしてみれば光栄の至りです。
究極的に現在の凡人の発言が、昔の偉人の発言と
同じであるという偶然性に畏怖の念を禁じえません。

「ジャズと宗教」や「ジャズ喫茶と宗教観」というテーマは、
興味津々です。コルトレーンも「聖者になりたい」と言って、
晩年のフリージャズへの突入、そして死して本当に
聖者になったと思います。ここで大事なのは自らの宗教です。
既成の組織に組することではありません。(言うまでもないことですね)

> コルトレーンの「インディア」

これは「インプレッションズ」というフリーに突き進む過渡期の
魂の迸る演奏の詰まったアルバムの一曲目です。
摩有さんがメランコリーな少女の時、
このレコードに出会っていたら、
きっと勇気付けられたことでしょう。
ジャズ喫茶に身を埋めて思案したことでしょう。
冥府魔道の混迷から搾り出すような苦悩のサウンドが、
自らの心の闇に光を投じ、こぼれていた種が芽を出し、
成長していくイメージが感じられました。(私の場合)
混沌からの昇華をコルトレーン・ジャズに見ます。
ラストを飾るのバラード
「アフター・ザ・レイン 」(4曲目)にも涙して下さい。

Posted by 二健 at 2009年03月25日 02:37
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